そうだ、福井県の嶺北、行こう(その1)
2014年12月13日
あれが出来て人が増えてしまう前に行けるところだけでも行っておこうの第1弾
今回は素通りしまくりだった福井へ
天気はよろしくない予報だったものの、なんとか持ちこたえてる状態
まずは福井駅前からバスに乗って丸岡へ
丸岡城にやって来ました
別名 霞ヶ城とも言われ、1576年に一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家の甥にあたる勝豊が豊原に派遣された際に豊原城を構え、1576年に丸岡に移る際に築城したものです。 丸岡周辺は築城後に城下町を整備したのが始まりといわれています。当時は五角形の広い濠があったそうですが、大正から昭和にかけて埋められてしまいました
丸岡城は現存天守の1つですが1948年に発生した丸岡周辺を震源とする福井地震で倒壊したものの、倒壊した資材を解体保管して1955年にその資材を利用して再建されました。
徳川家康の家臣本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」という手紙の話があります
いざ攻め落としに!
ぐるーっと
ぐるぐるーっと
四方を眺めて丸岡城完了
この井戸は豊原から丸岡に移って城を建てた後も豊原は一向一揆の最後の拠点地だった事もあって残党がしばしば攻撃を仕掛けに来てたようです。しかしそのつどこの井戸の中から大蛇が現れて城に「かすみ」をかけて城の危機を救っていた。
という伝説から丸岡城の別名「霞ヶ城」が付けられています。今でも春先などにかすみに覆われた姿を見ることが出来ます
丸岡城を出てバスターミナル方面へ歩いて移動
気になっていた途中の神社に立ち寄り
御祭神:椀子皇子、振姫命、應神天皇、有馬晴信公
磨留古乎加(まるこおか)に居住された味真野皇子は、第二皇子の御名に地名をとって椀子皇子と命名。産湯の水は乎加の東の麓の清水を用い、御胎衣を乎加の南に埋めて神明宮と崇めたのが始まりだそうです。
国神神社は丸岡城内に鎮座していましたが、1576年に柴田伊賀守勝豊公が豊原から丸岡に移る際に遷座、明治19年に高向神社(御祭神:振姫命、應神天皇)を合祀、福井地震で社殿が倒壊焼失。昭和37年7月15日に本殿、幣殿・拝殿を造営してその時に社殿が南から西向きに変更して霞城神社(御祭神:有馬晴信公)を合祀されましたその時に社殿が南から西向きに変更されました
ちょっとムッチリ系
拝殿前の二方
拝殿横には稲荷社
この木は昔からあり、国神神社がここに遷座した時から御神木とされています。
福井地震の際には境内の木々は焼失したものの唯一この木だけが焼失を免れて今も御神木としてどっしりと佇んでいます
バスターミナルに着くと徐々に天候が悪化。でも代替はもう使えないので予定通りの目的地へ
\デデデデン デデデ デーデーン/
火サスファン憧れ、東尋坊に来たぞヽ(゚ω゚)ノ
東尋坊は越前加賀海岸国定公園にある海の浸食よって岩肌が削られて出来た高さ約25メートルの岩壁
岩肌は溶岩が固まってて出来た柱状節理となっています
東尋坊の名前の由来は
昔、奥越に僧兵を有して隆盛を極めていた「平泉寺」があり、その中に極悪非道の振舞いで近郷の民百姓を大変苦しめていた者が居てその旗頭だったとされる僧の名前が「東尋坊」、
東尋坊には「あや姫」という娘を真柄覚念とライバル関係にあり、その真柄覚念が1182年4月に平泉寺の僧兵数十人が今の東尋坊を訪れて酒盛りをしていたときに東尋坊に絶壁の上で酒等を勧めて泥酔させて海へ突き落としたそうです。 その後、49日間にわたって東尋坊の無念により海は大荒れとなってそれから東尋坊といわれるようになったと言われています。
波の高さが半端ない…風も半端ない…これが冬の北陸日本海…
少し見て回ったものの天候が回復する気配もないし、風に煽られたらとか冗談でも出来ない位な状況だったので撤収!
というかもう霰が雨のごとく降ってる上に、強風で勢いを増して顔に当たるのでいつか皮膚が切れるんじゃないかと、、、
本当は遊歩道を少し歩きたかったんですが、さすがにこれは無理。
まぁ荒れた状況の風景が見れたし三国周辺は面白そうなので次は穏やかな時期にかな
引き上げる最中にこの悪天候の中、虹が
バス停に戻ってもう福井市内に戻ろうと思ったものの水族館に寄れる時間が充分に取れたので越前水族館へ
外に出ても天気は相変わらず、、、
んで、あざらしの餌やりのアナウンスをしてましたがさすがにこの天気であそこまで歩いて見に行く人居ないだろうなぁと思ったらやっぱり居ませんでした…
ちなみに僕はアザラシ達が飼育員さんを待ち構えてるオーラを出しまくってる姿と、飼育員さんがイベントとかではなく日常的な餌やりをしているほのぼのした光景を遠くからひっそりと見てました
水族館を後にして再びバスに乗り、福井市内に戻って1泊
その2へ
ページ上へ
あれが出来て人が増えてしまう前に行けるところだけでも行っておこうの第1弾
今回は素通りしまくりだった福井へ
天気はよろしくない予報だったものの、なんとか持ちこたえてる状態
まずは福井駅前からバスに乗って丸岡へ
別名 霞ヶ城とも言われ、1576年に一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家の甥にあたる勝豊が豊原に派遣された際に豊原城を構え、1576年に丸岡に移る際に築城したものです。 丸岡周辺は築城後に城下町を整備したのが始まりといわれています。当時は五角形の広い濠があったそうですが、大正から昭和にかけて埋められてしまいました
丸岡城は現存天守の1つですが1948年に発生した丸岡周辺を震源とする福井地震で倒壊したものの、倒壊した資材を解体保管して1955年にその資材を利用して再建されました。
徳川家康の家臣本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」という手紙の話があります
いざ攻め落としに!
四方を眺めて丸岡城完了
伝説が伝わる井戸
という伝説から丸岡城の別名「霞ヶ城」が付けられています。今でも春先などにかすみに覆われた姿を見ることが出来ます
丸岡城を出てバスターミナル方面へ歩いて移動
気になっていた途中の神社に立ち寄り
国神神社
拝殿
御祭神:椀子皇子、振姫命、應神天皇、有馬晴信公
磨留古乎加(まるこおか)に居住された味真野皇子は、第二皇子の御名に地名をとって椀子皇子と命名。産湯の水は乎加の東の麓の清水を用い、御胎衣を乎加の南に埋めて神明宮と崇めたのが始まりだそうです。
国神神社は丸岡城内に鎮座していましたが、1576年に柴田伊賀守勝豊公が豊原から丸岡に移る際に遷座、明治19年に高向神社(御祭神:振姫命、應神天皇)を合祀、福井地震で社殿が倒壊焼失。昭和37年7月15日に本殿、幣殿・拝殿を造営してその時に社殿が南から西向きに変更して霞城神社(御祭神:有馬晴信公)を合祀されましたその時に社殿が南から西向きに変更されました
ちょっとムッチリ系
拝殿前の二方
拝殿横には稲荷社
タブの木
福井地震の際には境内の木々は焼失したものの唯一この木だけが焼失を免れて今も御神木としてどっしりと佇んでいます
バスターミナルに着くと徐々に天候が悪化。でも代替はもう使えないので予定通りの目的地へ
\デデデデン デデデ デーデーン/
火サスファン憧れ、東尋坊に来たぞヽ(゚ω゚)ノ
東尋坊は越前加賀海岸国定公園にある海の浸食よって岩肌が削られて出来た高さ約25メートルの岩壁
岩肌は溶岩が固まってて出来た柱状節理となっています
東尋坊の名前の由来は
昔、奥越に僧兵を有して隆盛を極めていた「平泉寺」があり、その中に極悪非道の振舞いで近郷の民百姓を大変苦しめていた者が居てその旗頭だったとされる僧の名前が「東尋坊」、
東尋坊には「あや姫」という娘を真柄覚念とライバル関係にあり、その真柄覚念が1182年4月に平泉寺の僧兵数十人が今の東尋坊を訪れて酒盛りをしていたときに東尋坊に絶壁の上で酒等を勧めて泥酔させて海へ突き落としたそうです。 その後、49日間にわたって東尋坊の無念により海は大荒れとなってそれから東尋坊といわれるようになったと言われています。
少し見て回ったものの天候が回復する気配もないし、風に煽られたらとか冗談でも出来ない位な状況だったので撤収!
というかもう霰が雨のごとく降ってる上に、強風で勢いを増して顔に当たるのでいつか皮膚が切れるんじゃないかと、、、
本当は遊歩道を少し歩きたかったんですが、さすがにこれは無理。
まぁ荒れた状況の風景が見れたし三国周辺は面白そうなので次は穏やかな時期にかな
引き上げる最中にこの悪天候の中、虹が
バス停に戻ってもう福井市内に戻ろうと思ったものの水族館に寄れる時間が充分に取れたので越前水族館へ
床面が透けてる水槽
んで、あざらしの餌やりのアナウンスをしてましたがさすがにこの天気であそこまで歩いて見に行く人居ないだろうなぁと思ったらやっぱり居ませんでした…
ちなみに僕はアザラシ達が飼育員さんを待ち構えてるオーラを出しまくってる姿と、飼育員さんがイベントとかではなく日常的な餌やりをしているほのぼのした光景を遠くからひっそりと見てました
水族館を後にして再びバスに乗り、福井市内に戻って1泊
その2へ
ページ上へ